文章を書いてみたくなった

返報性の原理というのがある。何かしてもらうと、お返しをしたくなるというやつ。

常日頃たくさんのクリエイティブにあてられて、自分だけは何もしないことにだんだん辛さを感じてきたのでここで吐き出してみようと思った。

 

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個人的に思考や物事を言語化するというのは現実を圧縮する行為だと思っている。それも非可逆圧縮。なにがいいたいかというと、言語化する過程で情報は削ぎ落とされ、変質するということ。

また、語彙にない物事は思考できないという説がある。思考を言語化して書き留めるためには、言語として成立するように思考を整理する必要がある。その過程である思考を言語化する語彙を持たない場合、その情報は削ぎ落とされ、なかったことにされる。

話は変わって、人間には一度表明した立場や意見を変えることに抵抗をもつようにできている。それは社会性を形成する点で役に立っている。自分が過去に何を発言したかを記憶し、その発言に矛盾しない立ちふるまいをすることが社会性であるといえる。だがそれは同時に自分自身の本来自由であるべき思考を縛る鎖にもなっている。

これらから、思考を言語化して書き留めるという行為は、語彙にない思考を無視してなかったことにし、さらに将来おいてもその再考を妨げるという側面がある。

社会性の一つとして、自分の立場を周囲に表明することは必要であるが、同時にそれは本来自由であるべき己の思考を型にはめる行為であると心得るべきではないか。

もう一つ。

情報の整理とは、その情報の重要度を分析してよりウェイトの高いものに注力することで、物事を単純化して考えやすくする行為である。単純化とは近似であり、元の情報そのものではない。目的がはっきりしているなら、その目的に必要ない情報は削ぎ落とすほうが前に進むためには必要であるが、目的のはっきりしない物事(例えば人生)においては複雑なものを複雑なまま扱うということが必要なのではないか。